2008/3/29 土曜日

追加上映:沖縄県東村高江の記録

Filed under: 映像セル — 世話人 @ 1:51:00

中央棟1Fで映像の追加上映が行われます。

Yes! Peace Love! やんばる No! 東村高江へのヘリパッド建設やめよう『やんばるからのメッセージ:沖縄県東村高江の記録』(2007年/22分)
続編『高江の近況:2007年12月16日−2008年3月21日』(2008年/16分)
監督 比嘉”マーティ”真人
音楽 Dinka Dunk
制作 ORACION

東村高江ヘリパッド沖縄島北部にひろがる「やんばる」の森は、絶滅の危ぶまれる動植物を育む自然の宝庫である。しかし同時に、1950年代からジャングル訓練センターとして米軍に提供されてきたというもう一つの顔も持つ。その、やんばるの森と米軍施設に囲まれた東村(ひがしそん)高江区(たかえく)。人口160名弱のこの集落を囲むように計画されている米軍ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)の着工を阻止しようと、2007年7月いらい座り込みを続ける住民たちとその暮らしを描いたドキュメンタリ映像。

2008/3/28 金曜日

「りりくじゅんび」上映時間・会場の変更について

Filed under: 映像セル — 映像セル @ 18:19:56

りりくじゅんび

3月30日の「りりくじゅんび」の上映時間と会場が変更になりました。

時:18:3018:40

場所:A会場B会場

2008/3/11 火曜日

上映プログラム「マルチチュードの身振り」

Filed under: 映像セル — 映像セル @ 13:22:30

「マルチチュードの身振り」

「ぼくたちがたびたび議論してきた唯一の領域であるこの抽象の領域において、どうやったら出来事を構築できるのか、あるいは、単純に、どうやったら出来事を思考することができるのか。(中略)どうやったら存在の超過に接近することができるのか。その待機に、その実現に。」

マルチチュードという概念は、アントニオ・ネグリによるこの世界の表現であり、だが自らがマルチチュードと表現するこの世界にネグリもまた規定されている。表現するということは、思いに耽るだけでは足りず、また観察に耽るだけでも足りない、絶えず片方を中断しもう片方へと向かうそのくり返し、内省と傾注の間を絶えず行き来するそのくり返しなのだ。それは逃れられないことであるがゆえに途方もない労苦であり、まただからこそ表現することの自恃の念ともなりうる。
ここに紹介するのは、そのような内省と傾注との往還が、結果としてマルチチュードの諸形式をわれわれに垣間見せてくれる作品である。「自転車で行こう」では、主人公が共同体のルールを逸脱していることと、彼を「媒介」としたネットワークが機能していることとの間にある奇妙な矛盾が、杉本の戸惑いを隠さない制作態度によって描き出されていく。一方ジョナス・メカスは撮影からある程度の期間を置くことで、1秒24コマという否応のない時間の均質化のうちに開かれたイメージ、他のどの日とも、どの瞬間とも変わらないその日、その瞬間のうちに開かれたイメージをスクリーン上に横溢させてみせる。これらはつまり、マルチチュードの身振りそのものであり、この世界と映像表現とに対峙する、カメラを構えた、またカメラに規定された生であるのだ。

上映作品

「自転車で行こう」(3月29日(土)19:00~、3月30日(日)16:00~)

「富士山への道すがら、わたしが見たものは…」(3月29日(土)15:00~、3月30日(日)18:00~)

上映プログラム「特異的凡庸」

Filed under: 映像セル — 映像セル @ 13:17:17

「特異的凡庸」

「芸術は、いまや、マルチチュードの諸実践のなかの、ありとあらゆるところに存在する」

一般家庭にもフィルム撮影機材が普及しつつあった時代に登場してきた自主映画作家たち。彼らは既存の映画文法を土台としながらも、次第に、低予算を逆手に取った機動性や個人的主観の暴走といった、自主制作だからこそ可能なスタイルを築き上げていく。
結果、従来ノイズでしかなかった映像が新たな表現の方法となり、映画をはじめとする作家性の認められた映像表現との境界が融解してきた。例えば山崎幹夫の「りりくじゅんび」は、はたして“作品”と言えるのだろうか。
こうして見ると、映像に於けるノイズの代名詞であり、いまだ語る言葉を見出されていないホームムービーに対する見方も変わってくる。その画質や手ブレ、表現以前の欲求に基づいた撮影者のまなざしは一見、凡庸で見るに耐えない。しかし幾許かの忍耐と細心の注意を以て凝視してみれば、そこには撮影者の特異的な身体の痕跡が現れる。見たものと見ようとしたもの、見ざるを得なかったもの……雑多な感情が渾然一体となり焼き付けられたその眼差し、カメラを持つ手の震え、歩行・移動のリズム、息づかいが映像に与える微細な振動。類型化を許さない生の煌めきだ。

上映作品

「銀河系」(3月30日(日)17:30~)

「個人映像集団「化粧」(kesou)セレクション」(3月30日(日)15:30~)

「リビングルームシネマ」(3月29日(土)14:00~、3月30日(日)16:30~)

「りりくじゅんび」(3月29日(土)16:10~、3月30日(日)18:40~)

上映プログラム「反乱の証言」

Filed under: 映像セル — 映像セル @ 12:28:14

「反乱の証言」

「物語とは何の役のたつのか。出来事を待ち望み、それを構築しなければならない者の境遇に、ぼくたちの身を置き直すためさ。ここでこそ、マルチチュードは、マルチチュードの想像力の一切は、運動しているんだ。」

ネグリは、イタリアパトヴァに生まれ、後にパリで思考を鍛え、言葉をつむいだ。彼は『<帝国>』をはじめとする著書において、マルチチュードによる自治、すなわち特異性の増殖と協働という新たな構成的権力への移行を描いている。グローバル化に伴う脱領土化が叫ばれて久しいものの、具体的な活動は、時と場所による特異性を孕んでいる。そこで本上映会ではネグリの描く地図を片手に、日本の有象無象の民による運動の痕跡を見つめ直してみたいと考えた。
とはいえ、ここでは日本の運動史を包括するようなプログラムは目指していない。上映される作品群は60年代以降のいくつかの場所における活動の記録や記憶の断片である。67年高崎経済大学にて、学生側の視点からストライキによる権力との対峙を捉えた小川紳介は、その後辺田部落に住まう中で、成田空港建設をめぐる「闘争」のもとに揺れる人々の表情を、若者・老人・家族・集落など様々な角度から描き出した。改めて上映作品群を見てみると、運動を捉える視線そのものがカメラの単眼性から逃れ、複眼性を孕む物語へと向かおうとしてきた様がうかがえる。
ネグリを知った私たちがこれらの作品に触れることは、<今ここ>における特異性の増殖と協働を考える手がかりになるのではないだろうか。

上映作品

「圧殺の森」(3月30日(日)14:00~)

「三里塚 辺田部落」(3月29日(土)14:00~、3月30日(日)19:00~)

「山谷(やま)-やられたらやりかえせ」(3月29日(土)17:00~、3月30日(日)13:30~)

「幽閉者」(3月29日(土)19:00~、3月30日(日)19:00~)

「LEFT ALONE」(3月29日(土)16:30~)

「素人の乱」(3月29日(土)17:30~、3月30日(日)19:00~)

2008/2/7 木曜日

掲載情報

Filed under: 映像セル — 映像セル @ 11:31:29

映像プログラムで上映予定の作品を提供してくださるNPO法人映画保存協会(http://www.filmpres.org/)のwebサイトで、ネグリデングリ企画について掲載して頂きました。

http://www.filmpres.org/archives/210

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